東葛地域はかつて「医療過疎地」と呼ばれていた時代がありました。流山市在住の旅行作家山本鉱太郎氏に流山市の医療の歴史をおたずねしました。
「1980年代、時代のニーズにあわせて、「北医療グループ(現在、東京ほくと医療生活協同組合)」が全国各地に診療所をつくっていた頃の話です。新しい診療所の場所を探しているときに、医療施設の乏しい流山が候補地にあがり、江戸川河畔に病院を建設することを決めました。1982年の話です。」
◆市民のための流山初の病院建設!
当時、流山市博物館友の会の会長の北野道彦氏もこの話を耳にされ、「これはなんといい話だ!」 北野氏は、元出版社の編集者で、都心から江戸川台の富裕者向け老人ホーム 協栄年金ホームに移り住んでいました。当時、ホームの人たちは病院に行くとなると、バスに乗って、契約している小金原病院に出かけていました。近くに病院がなかったからです。
◆建設基金について
もちろん、病院建設のためには莫大な資金が必要でした。当時、その資金集めのために、次の二通りの方法をとりました。
1 社員となって拠金
2 年利5%で出資
社員になれば、人間ドッグ割引などいくつかの利点も設けました。北野氏は、すぐに、まわりの方々に出資の理解を求めてまわりました。山本氏は言います。
「僕も北野さんの話に同調し、協力しようと思った。僕は社員として20万円、利息付出資として30万円、計50万円を拠金した。北野氏は100万円出したと思う。そのほか協栄年金ホームに住む方何人かが協力し、全市にまたがる市民の方々も多く協力した。」
こうして、市民の期待を担って、400床の大病院ができました。
この病院は残念ながら、わずか1年にして経営破たんしました。その原因はいくつかありましたが、
「最新の機器を大量に購入しすぎての果て」と、聞かされたそうです。
「社員としての20万円は返却不能、あとの30万円はその後3,4年かかって無利子で返却されました。それにしてもお粗末な末路でした」
この病院はそのあと、まったく別の医療機関の支援を受けるようになり、再建されました。
当時、多額の出資金を出してまで病院建設に期待した流山市民の方々の期待は今も変わらないはずです